※今回もECETI代表、ジェームズ・ギリランドさんの著書『究極の魂の旅』より一部抜粋をお届けします。
☆イエスの真の教え(p.123)
イエスの真の教えを理解するためには、彼の人生における一連の出来事に目を向けなくてはいけません。初め、彼は男性・女性から生まれ、「私は人の子である」といいました。
その後、彼は旅先で、内なるメッセージを受け始めました。彼は自分が神の使いだと気づき、「私は神の使いだ」といいました。
さらに生涯の仕事の中で、「私は神の子である」といいました。なぜなら彼は、聖霊(スピリット)から生まれた魂であることを知り、肉体と人格を超越して霊界に入ったからです。このため、人々は石を取り、彼を殺そうとしました。
彼は最後の日に、「私は神である」といいました。イエスは神との完全な浸礼(体全部を水につける洗礼)を経験し、神と一つになりました。彼は、「私は何もしない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」といいました。
また彼は、「汝らは神であり、汝らはもっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」ともいいました。イエスは、キリストの原型、つまり私たちの内に存在するキリスト意識の原型であり、最終的に、私たち全員が進まなくてはならない道だったのです。キリスト意識というのは、男性・女性が、彼ら自身は神であると知っているとき、そして神が、自身を男性・女性だと知る―つまりその二つが融合して一つになる時のことを意味しています。
分離、分裂、戦争、そして何百万人の死を生み出す、最も大きな誤解は、イエスという人間、人格は道であり、真理であり、光であり、誰も彼によらないでは天国にはいけないという信念です。イエスを通じて話している神は、さまざまな文化の中で、その他のマスターたちを通じて話している神と同じなのです。
神の名前、イメージ、教義に関して、批判し、糾弾し、戦争をすることは、イエスの道ではありません。それは大衆を奴隷状態にし、コントロールして操り、権力、地位、そして富を手に入れたいと望む人たちの道なのです。イエスは、無限の愛、思いやり、そしてゆるしを体現していました。神に仕える人たちがいる一方で、宗教法人に仕えるたちがいますが、彼らの行動で、どちらに属するのかがわかります。
イエスの本質、その他の偉大なマスターたちの愛と思いやりを経験した後だと、多くの原理主義者の教会で教えられていることに、私はうんざりします。それは完全にキリスト意識に反するものです。天国には、恐れ、罪の意識、自分には価値がないという考え方が入り込む余地はないからです。男性と女性を神から分離させる、低い振動が基盤となる態度や感情があります。
最も制限のない形で理解すれば、神は無限の愛であり、喜びであり、慈悲の心であり、ゆるしであることを教える必要があるのです。そしてそこには生命に対する畏怖の念も含まれます。なぜなら神は万物に遍在するからです。遍在に、分離はありません。パウロは、
「あなたが愛のうちを歩くとき、あなたは神と一緒に歩いている。神には分裂はない」といっています。
神は、まさに万物の中に遍在します。私たちは皆、神の息子であり娘なのです。
〝梨の種子が梨を生み出すように、木の実の種子から木の実の木が生えるように、神の種子は神々を生み出す〟(マイスター・エックハルト。1260年頃~1328年頃、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者)
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